■CIFとは
運賃・保険料込み価格のこと。品物の引き渡し契約の一種で、目的地までの運送費用、および保険料を含んだ価格という条件のもの。略して、シフと呼ぶこともある。
商品先物取引、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。ガザンはハン位奪取にあたってモンゴル部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したためイスラム教に改宗し、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。ガザンは自ら「イスラームの帝王(パードシャー)」(P?dsh?h-i Isl?m)を名乗り、この称号はオルジェイトゥ、アブー・サイードにも受継がれた。ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。
投資信託は、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。
ガザンは1304年に死ぬが、弟のオルジェイトゥがハンに即位して兄の政策を継続し、また1301年にカイドゥが戦死して大元を宗主国とするモンゴル帝国の緩やかな連合が回復された結果、東西交易が隆盛してイルハン朝の歴史を通じてもっとも繁栄した時代を迎えた。オルジェイトゥは新首都スルターニーヤを造営し、宰相ラシードゥッディーンにガザン時代に編纂させた「モンゴル史」を母体に、モンゴルを中心に当時知られていた世界のあらゆる地域の歴史を集成した『集史』や、彼の専門であった医学や中国方面の薬学についての論文、農書、イスラーム神学に関わる著作集を執筆させている。ガザンは「サイイドたちの館(ダールッスィヤーダ)」と呼ばれる預言者ムハンマドやカリフ・アリーの後裔であるサイイドたちのための宿泊施設を各地に建設し、また各地でモスクやマドラサその他宗教・公共施設の建設や改修、ワクフ物件の設定が行われた。
外貨預金の時代には用紙の企画化が推進され、現在にも伝わる大型かつ良質なクルアーンや宗教諸学、医学、博物学、天文学など様々な分野の写本が大量に作成された。地方史の編纂も盛んであった。『集史』編纂の影響と考えられているが、特に挿絵入りの『王書』などの文学作品の豪華な写本が作成されるようになったのも両ハンの時代からであった。この時代にはイルハン朝におけるイラン=イスラーム文化の成熟が示された。1316年、オルジェイトゥが死ぬと息子アブー=サイードが即位するが、新ハンはわずか12歳であったためスルドス部族のチョパンが実権を握った。1327年、成人したアブー=サイードはチョパンを殺害し、実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。子のなかったアブー=サイードは1335年、ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが来襲する中で陣没し、フレグ王統は断絶した。これをもってイルハン朝の滅亡とすることが多い。
アブー=サイードが陣没したとき、ラシードゥッディーンの息子で宰相のギヤースッディーンは、フレグの弟アリクブケの玄孫にあたる遠縁の王族アルパ・ケウンをハンに推戴させた。しかし、アルパ・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・パーディシャーに敗れて殺害され、以来イランは様々な家系に属するチンギス・ハーンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて次々とハンに改廃される混乱の時代に入った。1353年、乱立したハンの中で最後まで生き残りホラーサーンを支配していたトガ・ティムール・ハンが殺害され、イランからはチンギス・ハーン一門の君主は消滅した。一方、アブー=サイードの死去以来、イランの各地には遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立していたが、これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝の支配下に組み入れられていった。
CFDを支配した遊牧国家である。チンギス・ハーンの次男チャガタイを始祖とするチャガタイ・ウルスから発展した。チャガタイ家のウルスが実質的にチャガタイ・ハン国とみなせるほどの統一された政権を打ち立てるのは他の諸ウルスと比べると遅く、14世紀初頭にチャガタイの4代後の子孫であるドゥアが、オゴデイ家のカイドゥにより中央アジアに樹立された政権の支配圏を奪取して、ユーラシアの東西に広がる全モンゴル帝国のうち、中央アジアの領域を制覇して以降とみなされている。
この政権は、モンゴル帝国が分裂、独立して成立した国というよりも、帝国全体の盟主である大ハーン(カアン)の宗主権を戴く政権という性格を有していた。そのため、専門の研究者はチャガタイ・ウルスという呼称をこの政権の発祥から分裂までの全時代を通じて用いることが多い。
モンゴル帝国の始祖チンギス・ハーンは、1206年にモンゴル高原を統一してモンゴル帝国を建国した後、長男のジョチ、次男のチャガタイ、三男のオゴデイの3子にそれぞれ4個ずつの千人隊(千戸、1000人の兵士を動員可能な遊牧民の集団)を所領(ウルス)として分与し、高原西部のアルタイ山脈付近を遊牧地に設定した。チンギス・ハーン存命中の帝国の拡大により、中央アジアがモンゴル帝国の支配下に入ると、チャガタイのウルスにはかつての西遼(カラキタイ)の遊牧民たちが遊牧地としていたイリ川渓谷を中心に天山山脈北西麓の草原が与えられた。この時点では、天山山脈の東北麓には天山ウイグル王国が健在であったこととタミル盆地やマーワラーアンナフル(トランスオクシアナ)のオアシス・都市はハーンの直轄領であったことから、チャガタイのウルスにその支配権はなかった。
不動産投資、チンギス・ハーンが没すると王族の間で次のハーンを決める集会(クリルタイ)が開かれたが、このクリルタイでチャガタイは自分と仲の良い弟のオゴデイを後継のハーンに推したとみられる。1229年、オゴデイが即位するとチャガタイはその実質上の後見人としてハーンに次ぐ権威をもつようになり、チャガタイ一門はジュンガリアのエミル川流域を遊牧していたオゴデイの一門と並んで帝国の中枢を占めるようになった。この権勢をもとに、中央アジアにおいてチャガタイはマーワラーアンナフルからホラーサーン地方に至る地域で自身の支配力を伸張した。この地方の住民の大多数を占めるムスリム(イスラム教徒)に対してもモンゴルの法令であるヤサの諸規程を厳格に適用したため、ムスリム住民はその支配に苦しんだようである。
14世紀初頭にイルハン朝で編纂されたペルシア語の歴史書『集史』「チャガタイ・ハン紀」では、チャガタイの死後当主となったカラ・フレグ以下イェス・モンケ、カラ・フレグ妃オルクナ・ハトゥン、アルグらを一貫して「チャガタイのウルスの帝王(p?dsh?h-i ?l?s-i Chaghat?y)」と呼んでおり、少なくとも14世紀初めには「チャガタイのウルス」という表現が存在していた(オルクナのみ「チャガタイのウルスの代官(ハーキム)」)。
1241年、オゴデイが没し、その翌年にはチャガタイが没すると、重鎮を立て続けに失ったモンゴル帝国ではハーンの後継者争いを巡って内部に葛藤が起こった。チャガタイは生前にバーミヤーン攻囲戦で戦死した長男モエトゲンに代わり、モエトゲンの四男でブリの弟であったカラ・フレグを後継者としていた。
オゴデイ家とチャガタイ家はドレゲネ皇后の説得の結果、シレムンの擁立を諦め協力してオゴデイの長男でドレゲネの実子であるグユクを第3代ハーンに即位させたが、グユクと個人的に不仲なジョチ家の当主バトゥがこれに難色を示した。第2代当主カラ・フレグの協力もあって即位したはずのグユクであったが、チャガタイの嗣子たちが生存しているのに、まだ若いカラ・フレグがチャガタイ家の当主であることは不可解である、と称しカラ・フレグを当主位から廃してチャガタイの五男であったイェス・モンケをチャガタイ家当主に任命した。1248年、在位わずか2年でグユクが没すると、バトゥは、先にオゴデイ即位のとき、最大の実力者でありながら兄にハーン位を譲っていたチンギス・ハーンの四男トルイの一門と協力して政変を起こし、トルイの長男モンケを第4代ハーンに即位させた。